『愛すべき娘たち』の読書会に参加しました。
    この漫画は今回初めて読みました。漫画が出た2000年初頭は雪子と同年代、現在は麻里に近い年で、境遇としては聖子に近いのですが、女の生き方の面でリアルだなぁと思うところが多かったです。
    令和の今読むとやや古さを感じたところもありましたが、これは時代のせいもあるのでしょう。今よりも余裕がありそうな世の中で、まだまだカップル幻想があり、それがなんらかの救いになったり、収まるところに収まりましたという終わり方になったりしていて(相手が神様も含めるとほぼ全部では?)、娘は母や祖母を理解するし、ものすごく典型的な「理解ある彼くん」なども現れるしで、読書会では、をのひなお『明日、私は誰かのカノジョ』との違いを感じるという意見も出ました。
    正直、今だとネットで人気の反フェミインフルエンサーみたいな人に女は結婚すりゃいいんだからイージーモードだよなぁとか言われない?    ていうか私はちょっと思っちゃったよ??    というのが一読した感想だったので、やはり作品の時代性というのはあるんだなと感じました。
    懇親会まで参加した感じ、この漫画をフェミニズム漫画と捉えている人も多かったのですが(これは少し驚きでした)、それで言うと2話の舞子は微妙な立ち位置だなと思いました。
    今日の混沌としたフェミニズムの視点のうち、被害者性を重視する立場に立つと、舞子はなんらかの助けが必要な女性に見えなくもないのですが、読書会で、彼女は結局望む相手と付き合えている、女性はその気なら体を使ってそれができるけど、非モテ男性はそれができない、というような話も出て、うーんそういうことは確かにあるかも、と唸ってしまいました。これはでも、女の主体性を重視する立場から見ると、それの何が悪いのだという話で、舞子は体を使って欲しいものを手に入れているとても主体的な女、となりますが、見方によってはそれもやっぱりイージーじゃん、と思えなくもない。
    女にとって何がイージーか、というのは一概には言えないのだけど、昨今のフェミニズムの混沌と反フェミインフルエンサーの冷笑を予見しているような話ではあり、その意味では当時としては新しいタイプのお話だったのかもしれないとも思いました。
    まあどっちにしても、講師のキヨくんは一応教育者なんだからもうちょっとなんとかやりようがあっただろ…、みたいな気持ちにはなりました。その辺りは以前トリコ組で課題本になったA・スリニヴァサン『セックスする権利』に詳しい論考があったので読み返してみることにします。
    あと、少女漫画なのである意味当たり前なのですが、各回のメインの男性キャラがみんなここ一番のイケメン顔なので、それに目を眩まされている面もあるなと思いました。
    実際大橋みたいな、中高年シングル女性にとって激しく都合のいいイケメンはまずいないだろうし(私くらいの年代の人は若かりし日の大◯賢也氏を思い出すかもしれない…。そう言えば名前が似てね…?)、端的に言えば俳優志望のヒモだったわけです。今だとそこそこ人気が出たあたりで文春砲で熟女好きを暴露されてあれこれ揉める未来が見えてつらい。
    龍彦もとても雰囲気がいいけど、彼はおそらくこの先もめんどうになると黙ってタバコを吸って流そうとする人だろうし、結婚するともれなくあの強烈な母親がついてくる、という結婚生活上のかなり大きな困難も、なんなら障がいでさえも、彼がハイスペックないい男に描かれすぎてるせいか覆い隠されてしまっている気がします(莢子がスーパーケア力を持った女性として描かれているせいもあるかもですが)。
    女性のルッキズムの呪いをテーマの一つにしている割に男性キャラの顔がいい、というのはリアルな話がちょいちょいファンタジーになるということで、読んでてそこがちょっと気になりました。
    とはいえ、それこそこれは少女漫画なんだから、フェミニズム漫画でもファンタジーでも、読んで刺さったり腑に落ちたり元気をもらえたり面白かったと思えたならなんでもいいじゃん、とも思います。
    舞子みたいに自分が使えるものは使うのも生き方だし(※しかし無理やり行為に及ぶのは犯罪です)、神様と結婚するのっておそらくまったくイージーではないし、それは普通に結婚してもそうだし、何より仮にイージーモードだとして、いったいそれの何が悪いのか??    という開き直りに至ったというか。
    人生ほんといろいろあるけど、今のような時代は特に、図太くしたたかに生きていきたいものです。
    ところで、私はこの作品の男性キャラの中だったら順ちゃんが一番いいなと思っております。まあ脇役だからだろうけど、あまりややこしいところがないし、だいたい朗らかで機嫌がいいし。雪子がもらす結婚生活上の不満は言葉で伝えないとわからないし、案外「こうすべき」という自分自身の思い込みからも来ているものだということに早く気づくといいなと思いました。